2008年08月11日

シンフォニエッタ

ヤナーチェクで思い出した。
かなり前に、あるオケが「シンフォニエッタ」をやるからと曲目解説を書いたものの、下らん事情でボツになった原稿が出てきたから、この際ここに乗っけてみる。

以下、初公開の原稿。

「シンフォニエッタ」
レオシュ・ヤナーチェク(1854〜1928年)の作品を語る上で生まれ故郷であるモラビアと非常に大きく関係している。モラヴィアとはチェコの南で、ウィーンまで100キロ程の距離にあるブルノを中心とする地方である。レオシュ・ヤナーチェクは北モラヴィアに位置するフクヴァルディに1854年に生まれた。フクヴァルディはその中でもラシュコ地方に属するポーランドにも近い場所である。
 
 ヤナーチェクの父、イジー・ヤナーチェクは教育者、音楽家として各地を転々としながらも合唱指揮、教会でのオルガン演奏をして生計を立てていた。レオシュはドイツが入植地として建設したフクヴァルディに生まれ、幼い頃から父から音楽教育を受けていたのだが、病魔に蝕まれていくイジーに代わり収入を得る教育を受けるために、9歳にして母親とモラヴィアの首都ブルノに出ることになる。レオシュを見送ったイジーは息子と再会することなく、7ヵ月後に亡くなることとなる。
 
 9歳のレオシュがやって来たブルノは、中世の町並みを色濃く残すドイツ人中心の街であった。そのブルノでアウグスチノ修道院(当時、メンデルがえんどう豆の遺伝子研究を行っていた)に入り聖歌隊の一員となった。ここで十分な音楽教育を受け、18歳にしてブルノの聖歌隊の副指揮者に任命される。ここでは自作の発表の機会も与えられ、作曲家としての才能を開花していくことになる。しかし亡き父のように教育者になりたいと考えるていたレオシュは、プラハのオルガン学校に入学し教員の資格を取ることになったのだが、貧乏であったレオシュはピアノを借りるお金もなく机にチョークで鍵盤を書いて練習をしていた。このころから教会音楽、民謡の歌詞による「13のモラヴィア2重唱曲」などをモラヴィア題材とする曲を作曲するようになる。 
 当時のプラハは、ドヴォルジャークやスメタナがチェコ民族音楽を熱心な伝道となり、プラハ国民劇場の杮落としでスメタナの愛国的な歌劇「リブシェ」が上演されるなど、チェコ語の歌劇が盛んに作曲されていた。もちろんヤナーチェクもその仲間入りを目指したのだが、認められずブルノに戻る事になる。
 
 ブルノに戻り合唱指揮者として活動を広げ、先輩であるドヴォルジャークの作品をブルノで指揮し広めることになるが、留学したいとの思いがつのりライプチヒ、ブラームスやワーグナーが活躍するウィーンで作曲を学ぶが、作品は評価されずブルノに戻りまた合唱指揮者として活動を広げていった。そして1882年にはブルノに開校したオルガン学校の教師に任命された。これが現在のヤナーチェク音楽院として発展していく基礎となる。

 一方ヤナーチェクは指揮者としてドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」「幽霊の花嫁」など大規模な合唱付きの作品を取り上げ、指揮者として高い評価を得ることになるのだが、作曲家として歌劇「シャルカ」(現在でもほとんど演奏されない)などを作曲し意欲はあるものの、高い評価を得るには至らなかった。またピアニストとしても腕を振るい、アントン・ルビンシュタイン、サン=サーンスの協奏曲などを演奏した。

 チェコの民族的な作曲家になりたいというヤナーチェクの思いは、モラヴィアの民俗学者であるフランチシェク・バルトシュに出会い形となりはじめた。バルトシュは学者であるが音楽に精通していなかったため、ヤナーチェクと共に列車はおろか馬車で入っていく事すら困難なモラヴィアの村々、国境付近の山間の僻地を回り、モラヴィアの民族音楽を採譜し熱心に記録した。
 
 そして40歳にして代表作であり出世作となる歌劇「イェヌーファ」の作曲を開始した。しかし教員として多忙な生活、娘オルガの死などにより完成までおよそ10年も費やしたのだが、問題を抱えながらも1904年の初演は大成功を収めた。しかしプラハでの上演には実現せず、当時ウィーン国立歌劇場の音楽監督をしていたボヘミア生まれの作曲家で指揮者のグスタフ・マーラーにその上演を依頼したのだがこれも実現しなかった。更に同時期に作曲を進めていた歌劇「運命」は生前演奏される事無く、初演は1978年まで待つしかなかった。とは言え歌劇「イェヌーファ」の成功は、作曲家としての自信をヤナーチェクに与え、「草かげの小径にて」、ピアノソナタ「1905年10月1日」などのピアノ作品の名作を少しずつではあるが世に送り出した。

 60歳近くになったヤナーチェクは、歌劇「ブロウチェク氏の旅行」「カーチャ・カヴァノヴァー」とチェコ語によるオペラの作曲に力を注ぎ評価を高めた。そして第1次大戦中に作曲した狂詩曲「タラス・ブーリバ」は1921年のブルノ初演、1924年にヴァーツラフ・ターリヒ指揮チェコ・フィルのプラハ初演ともに大成功を収める事になるのだが、すでにヤナーチェクは70歳になろうとしていたのだ。さらには歌劇「利口な女狐」「マクロプロス事件」「死者の家」と言った名曲を世に送り出し、今日のオペラ作曲家として確固たる地位を築くことになる。また2曲の弦楽四重奏を作曲したのもこの頃である。

 そして遅咲きのヤナーチェクが最も有名な「シンフォニエッタ」を作曲したのは1926年で72歳になってからだ(この年には「シンフォニエッタ」と並んで古スラブ語の典礼による「グラゴル・ミサ」も発表している)。72歳の老巨匠が書いたとは思えないほど生命力に満ちた「シンフォニエッタ」は、生涯のほとんどを過ごしたブルノ讃歌であり、モラヴィアを愛したヤナーチェクならでは民族色の濃い強烈なインパクトを与える作品となった。ヤナーチェクの民族的作風とは、同じ民族的な作品を残した、ボヘミアのドヴォルジャーク、スメタナとは違い、より土臭く土俗的なものであった。

 第1楽章の金管楽器による壮大なファンファーレは本来、チェコ体操協会「ソコル」の依頼により作曲されたものであった。しかし曲想は次第に大きくなり、ハプスブルグに抑圧されたブルノが独立し、輝かしく自由となったブルノを表現したものとなった。この「シンフォニエッタ」が1926年にヴァーツラフ・ターリヒ指揮チェコ・フィルハーモニーが初演された時の後半に、スメタナ「我が祖国」全曲が演奏された事は偶然ではないだろう。

 「シンフォニエッタ」は5楽章からなる。1楽章は、先に述べた通りバストランペット、テナーテューバを含めた巨大な金管楽器とティンパニーのファンファーレに始まる。2楽章の「城」はブルノの高い丘に立つ「シュピルベルグ城」のことで、帝政オーストリア時代には政治犯収容所として使われていた(第2次大戦時にはナチスドイツも同様に使用していた)。その「シュピルベルグ城」が、独立し民衆の手に戻った喜びを表現している。
「王妃修道院」と題された第3楽章は、ヤナーチェクが聖歌隊として過ごしたアウグスチノ修道院のことである。「ドゥムカ」という舞曲風の哀愁に満ちた旋律が印象的である。
4楽章の「街路」は、ブルノの街路。古来「ブルノ」は城塞都市でもあったため、複雑に入り組んだ街路は、格好の散歩コースだったのだろうか?ポルカ調のスケルツォ風楽章である。5楽章の「市役所」は、ブルノ市役所のことで、独立の象徴であり輝かしい喜びの讃歌だ。1楽章で活躍したファンファーレの金管部隊が再び、耳をつんざくまでの強烈で壮大なファンファーレを吹き上げ締めくくる。
(注)各楽章の副題は、通常のスコアに印刷されているものではありません。
posted by CZ-Pivo at 22:43| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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